日本では
儒学者のみならず
国学者の間でも様々な説が立てられた(
大義名分論)。特にその延長上に位置づけられるのが、幕末の尊王攘夷論である。ただし、尊王論も攘夷論も本来は内に「君臣の義」、外に「華夷の弁」を強調するもので実際の政治体制(
幕藩体制)と直ちに対立するものではなかった。しかし、その価値基準は個々の価値判断(大義)に基づくものであったから、社会の安定期には儒教と皇室の権威に基づいた保守的な現状維持論に過ぎなかった尊王攘夷論が、江戸時代後期の政治・社会の不安定期には一転して政治の革新を求める運動に転化することとなり、
山縣大弐の『
柳子新論』(
1759年)や
藤田東湖の『
正名論』(
1791年)のように体制変革に踏み出す主張も現れるようになったのである。更に幕末最末期すなわち尊王攘夷運動終盤には
中岡慎太郎のように尊王攘夷論を外圧に対抗して国家の独立を維持するための理念と捉えて本来は排撃すべきである「夷狄」
アメリカ合衆国の建国者たちの活躍をその模範とすべしと唱える者まで現れるようになり、現実的な内外認識に合わせて変革思想の合理的解釈と正当化のための理論武装として大義名分論が持ち出されるようになった。