租庸調制の崩壊に伴って、
人頭税的な庸・調は徴収されなくなり、代わって田租と
地子米からなる地税的な官物と人頭税的な名残を残した
雑役(及びその一種である
臨時雑役)に収斂していくことになる。更に雑役も次第に地税化していくことになる。ただし、
10世紀においてはまだ官物の徴収基準がそれぞれの令制国の
国例に定められて
稲穀(
官稲(かんとう))や
米(
官米(かんまい))、
絹、
布などの形で徴収されていたが
[平田耿二によると、段別に租に当たる田租が1.5束、出挙利稲が1.5束、率稲(付加税)1.2束、率分加徴物(未納の場合の保険)1.3束の計5.5束が基準であり、調庸は所当料田と定めた田に対し官物に相当する量を納めさせたものである。(『消された政治家・菅原道真』文藝春秋 2000年 ISBN 4166601156)]、実際にはそれぞれの
国司によって定められていた。だが、そのために国例に定められた賦課を上回る官物が徴収されることになる。これを
官物加徴(かんもつかちょう)と呼び、それによって徴収された米を加徴米(かちょうまい)と呼んだ。だが、加徴を巡って国司と現地の農民との対立が激化するようになり、
11世紀中期には一定の基準(
官物率法)に従って官物・雑物が徴収されるようになり、それ以外の臨時の賦課を臨時雑物と呼ぶようになった。