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「山縣有朋」||ゲーム-LINK.com (05/25update)

山縣有朋 wikipedia|無料辞書

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山縣 有朋(やまがた ありとも、天保9年閏4月22日(1838年6月14日)- 大正11年(1922年)2月1日は、日本政治家軍人
長州藩領内の蔵元仲間足軽以下の身分三郎有稔(ありとし)の子として生まれた。幼名は辰之助、通称は小助、のち小輔、さらに狂介と改名。明治維新後は有朋のを称した。
高杉晋作が創設した奇兵隊に入って頭角を現し、後に奇兵隊の軍監となる。明治新政府では軍政家として手腕をふるい日本陸軍の基礎を築いて「国軍の父」とも称されるようになった。国政に深く関与するようになってからも「わしは一介の武弁」と称するのが常であった。官僚制度の確立にも精力を傾け、門閥や情実だけで官僚文官官吏が登用されることの無いように文官試験制度を創設し、後進を育成『明治・大正の宰相 2』180頁。晩年も陸軍のみならず政官界の大御所、「元老中の元老」藤村道生『山縣有朋』1-4頁として隠然たる影響力を保ち、「日本軍閥の祖」の異名をとった。第3代、第9代内閣総理大臣元老階級位階勲等爵位元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵。また、大英帝国メリット勲章も受章している。伊藤博文とならび明治維新期に低い出自から栄達を遂げた代表的人物である。

◆ 経歴

◇ 幕末期
天保9年(1838年)、萩城下近郊の阿武郡川島村(現・山口県萩市川島)に、長州藩の中間・山縣有稔(ありとし)の長男として生まれる。足軽以下の中間身分ながら将来は槍術で身を立てようとして少年時代から槍の稽古に励んでいた。このころ友人杉山松助らに松下村塾への入塾をすすめられるも、「吾は文学の士ならず」として辞退したともいわれる藤村道生『山縣有朋』6頁
安政5年(1858年)7月、長州藩が京都へ諜報活動要員として派遣した6人のうちの一人として、杉山松助、伊藤俊輔らとともに上京し、尊皇攘夷派の大物であった久坂玄瑞梁川星巌梅田雲浜らに感化を受け9月に帰藩後久坂の紹介で吉田松陰松下村塾に入塾したとされる。松陰から大きな影響を受けたと終生語っていた。松蔭門下となったことが出自の低い山縣が世に出るために大きな助けになったことは事実である。山縣が入塾したとされる時期からこの数か月後に松陰は獄に下ったため山縣の在塾期間は極めて短かったが、彼は生涯「松陰先生門下生」と称し続けた。
文久3年(1863年)高杉晋作奇兵隊創設とともにこれに参加し頭角を現す。高杉晋作は身分に囚われずに有能な人材を登用したため、低い身分であった伊藤博文や山縣などが世に出るきっかけを与えた。松下村塾と奇兵隊の存在により幕末の長州藩からは、伊藤博文や山縣のように足軽以下の身分の志士が多く出ている薩摩藩ではこのような例はなく、西郷、大久保はじめ下級とはいえみな士分であった
同年12月高杉晋作が教法寺事件の責を負い総督の任を解かれた際には三代目総管赤根武人とともに奇兵隊軍監に就任し、赤根武人が出奔した後は事実上実権を握った。慶応元年(1866年)に四代目総管に就任し、長州征討で高杉晋作と共に活躍、戊辰戦争では北陸道鎮撫総督・会津征討総督の参謀となった。
明治2年(1869年)、維新の功によって賞典禄600石を賜っている。

◇ 明治維新後